4年前に祖母が亡くなり、
両親二人と一緒に住もうと東京から戻り、実家に住んで早4年。
帰って来た当初は、毎日家族と食卓を囲み
仕事の話やたわいもない話をしていました。
輸入雑貨の仕事から、農業の道を決めるまであっという間だった。
少子高齢化を目の当たりにした、母校の小学校が廃校になった事も
翌年の東日本大震災も、農業をするきっかけになった理由だが
それよりも、父と一緒に仕事をしたいから。という気持ちがあった。
父は創ることが大好き。アイデアや仕事の工夫で、会社でも、
あ、いま思いおこせば新聞でも取り上げられるほどの実績があった。
ぼくは、実家に帰ると古い部分の一階を雑貨商談スペースにと
仕事の合間にリフォームをしていました。
家具も、壁も、クロスもフローリングも全部やりました。
そこには、必ず父が見ていてくれてアドバイスしてくれた。
息子の仕事で、どういう人生を辿って来たのかを見られているようでした。
仕事の順序や、ケガへの注意など。
それは、実はぼくも同じ事をしていて、
父の良いところを探しながら仕事をしていました。
創ること = 親子のコミュニケーション となっていて
たくさんのものを壊したり、創ったりしました。
いつしか、地元の発信をする為に
角田市の5つの『め』(こめ まめ うめ ひめ ゆめ)以外の発信で
自らが地域資源になろうと、『お米クリエイター』と名乗るようになり
活動するたびに親子のコミュニケーションが取りづらくなっていることに気づきました。
あ!まずい。長くなりそうなので。。。
えぇと。
FB映画部で『ゴールデンスランバー』をひさしぶりに観て
何気ない日常の中で、突然自分が犯罪者扱いされたら、、、
それは国家組織ぐるみで逃れられない状況を作られたら、、、
その時、自分を信じてくれる人はどれだけいるだろう。
そんなことを思いながら映画を観ていました。
主役のお父さんは、こう言っていました。
『あいつの事は、生まれた時からずっと知っているんだ。(犯罪を)やっているとかやっていないとかではなく。
母さんなんてもっとすごい!お腹の中にいる時からずっと知っている。』
なんか、じーーーーーーんときました。。。
地元にいるのがたまらなく、つまらなく、
20代の時に、家出同然で上京し
その代わりと言っては何だが、両親のそばにいたいと思いました。
でもなー。最近いれていません。。。
周囲ではものすごくバリキがあると評判の
何人分もの仕事をこなしてしまう父と
それをおいしい料理と気遣いで支える母。
両親は、いつもぼくを心配しています。
とても親不孝です。
自分の事をよく知っているのは
親だけではないんですよね。
みんなに迷惑をかけながら生きています。
これからも、やっぱり迷惑を掛けながら生きて行くのだと思います。
意図的じゃないです!
それでも、みなさま 今後ともよろしくお願いします。
ひとりで出来ると言いきりながら
自分以外の『知っている人』の
やさしさにふれたり、愛のある説教を頂いたりすると
涙がでちゃうなぁ。
いつもありがとうございます!!!